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「日本の鶏をよくする」。不遇の50年を正す宿命

日本橋人形町にある1760年創業の鳥料理「玉ひで」。「軍鶏鍋」「鳥すき」、そしてランチタイムの2時間半で200杯前後のオーダーが入る1,500円の「元祖親子丼」。これらの代名詞を挙げると「ああ、あのいつも行列ができているお店ね」という声が返ってくる。「日本橋の顔」といって過言ではないほど、玉ひでの名を知らない者は少ない。その知名度に甘んずることなく真摯に日本の鶏肉事情と向き合い、問題解決を老舗の使命と見据えるのが、1998年に8代めを承継した山田耕之亮(こうのすけ)さんだ。店主として今年20年を迎える彼は、自身と玉ひでに「日本の鶏をよくする」という命題を課している。

老舗に生まれた運命「自分ならではの感覚を大切にしたい」

鳥料理「玉ひで」の歴史を紐解くと、一行目はこうだ。 1760(宝暦10)年、御鷹匠(おたかじょう)として幕府に仕えていた山田鐵右衞門(てつえもん)と妻のたまが興した軍鶏料理専門店が、「玉ひで」のはじまり。 「御鷹匠」とは、将軍家の前で鷹がとらえた鶴をさばく包丁作法を披露する匠のこと。血を見せることなく、肉に手を直接触れることなく、鳥をさばき薄く切るという、代々踏襲してきた格式高い家伝の技。山田家はその技をもって軍鶏料理専門店という新しい道を切り拓いた。一子相伝の技は今日まで脈々と受け継がれ、玉ひでの鳥料理の根幹を支えている。その歴史の重みを背負うのが現店主、8代めの耕之亮さんだ。

250余年続く家業を承継する。それは一体、どんな心持ちなのかと問うと、「将軍の御前で刀を抜ける身分なんて、御鷹匠くらいだったと思いません?」と、不敵な笑みで返された。与えられたお役目を「制約」として、その制約の中でいかに自分にしかできないことをするか。山田家には、反骨精神のような気骨がDNAの中に組み込まれているのだろうか。耕之亮さん自身が「跡取り」を意識したのは幼稚園のころ。「幼かったし志も何もありませんでしたが」と振り返る。耕之亮さんには職業選択の自由はなかった。しかし自由がないからこそ、制約の中で「自分ならではの感覚を大切にしたい」と、独自色をいかに出すか模索してきた。老舗に生まれたからこそ、彼に宿った想いだった。

「玉ひでがやらなかったら誰もできない」鶏ギライだからこそ芽生えた信念

「鶏がおいしくない」。物心ついたころから、耕之亮さんには自覚があった。鳥料理店の跡取りが鶏ギライなんてあってはならないと幼心に後ろめたさもあったが、6代めである祖父に「この子は鶏の味がわかる」と喜ばれた。耕之亮少年が自身の感覚は間違っていない、大事にしていいのだと思えたのも、祖父の影響が大きい。

「日本の鶏をよくする」。はっきりとした使命が芽生えたのは大学を卒業するころ。味覚という感覚が導き出した信念だ。「あえていうなら、日本の鶏は世界で一番おいしくないと思っています」。思慮深い表情で、こと鶏の話になると熱がこもる。日本の食材はわりといいものだという通念があるが「こと鶏に関しては世界でビリかな」。しかしそれは、日本の養鶏の技術が悪いのではないという。鶏の味がわからない人が世の中に多過ぎるのだ。そしてそれは、どうしようもない社会状況が原因だったと分析する。

からくりはこうだ。戦前も含め、ものが豊かでなかった時代、アメリカからブロイラー種が入ってきた。ブロイラーとは鶏の名前でなく、育て方(ブロイラー生産方式)のことで、工業製品をつくるような養鶏技術。安価でカロリーの高い餌を与え、必要最小限の労力とコストで鶏を育て出荷する。戦後、アメリカ占領下の影響で完全に一般化し、30年以上、養鶏のスタンダードになってしまった。「要するに、鶏の味などまったくない鶏を50年は食べ続けてきてしまった。日本人は馬鹿じゃないですから、調理で工夫し味付けでおいしくする。そしてできたのが、焼き鳥と唐揚げです」

味のない鶏は、うまみ調味料や味付けで圧倒的においしくなる。おいしいから流行る。つまり味のない鶏が好まれ流通する。こうして鶏のおいしいの判断基準が、50年以上かけて置き換えられてしまった。本来であれば鶏の味がわかった人でも、その味を味わえなかったし知るよしもない環境下・状況下にあった。「この不遇を正すには同じ年月、いや、ひょっとしたらもっとかかるかもしれない。そしてそれは、玉ひでがやらなかったら誰もできない。そのポリシー、覚悟だけは持ってやっているつもりです」

玉ひでの、耕之亮さんの闘いは、日本の鶏リバイバルだけではない。それに伴う、食べる側の味覚啓蒙であり、作り手や同業者の意識向上でもある。孤高でいることを強いられるが、信念は揺るがない。

「味がわかる人を増やす」地鶏ブームの先駆け

終わりのない闘いにひとり挑んでいるような耕之亮さんだが、「そもそも自分に『こんな(おいしくない)鶏は食べたくない』という感覚、『こんな鶏ではダメ、いい鶏をつくらないといけない』という想いがあるからやってきた」と気概をみせる。「手応えとは言い難くも、兆しも見えはじめているんですよ」とも。

玉ひでは昭和50年代に、東京都と「東京軍鶏」を共同開発している。日本の伝統的な鶏肉の味を最大限に生かして開発された東京軍鶏は、他の鶏肉と比べると赤身が濃く、よくしまっている。じっくり育てあげているため、歯ごたえもあり肉の熟度も高い。東京軍鶏のような高品質系開発事業を発端に、その生産方法をもとにして日本中で地鶏生産者が増え、その鶏肉を好む人が増えてきた。

「昭和60年前後に生まれた方は、いい鶏が再び市場に出るようになったころに生まれた方々。10人にひとりなのかふたりなのかわかりませんが、彼らの中に鶏の味のわかる人たちがいる。そして彼らが30代になり親御さんになるころでもあり、『子どもにいいものを』といい鶏を食べようとする。そういう動きがあると、いい鶏をつくろうという生産者が増える。こういうサイクルがなんとなく兆しとして見えてきたような気がするんです」

パイが大きくなれば、味がわかる人も増える。噂を聞きつけて食べてみようという人も増える。市場を育てるには忍耐が必要だ。玉ひでにはその体力があり、老舗としてのプライドもある。玉ひでにしかできないとは、大げさではなく事実だ。

「老舗は変化を恐れない」変わらないために変えていく

玉ひでの名物ともいえる行列も、その兆しが間違いではないことの証明だ。白塗りの蔵のような外観の店先に連日行列をなす人々のお目当ては、元祖親子丼。この一杯1,500円の親子丼をきっかけに鶏肉に目覚める者もいる。次は軍鶏鍋や鳥すきを食べてみようと戻ってくる者もいる。価値を正しく理解してもらうことは、おいしいものを真摯に提供していればできるということを、耕之亮さんは親子丼の値段引き上げという実体験から知っている。

先代のポリシーは「親子丼は庶民の食べ物だから、安価で提供するのが当然」。そのため40年間、600円から1,000円の価格を通していた。その当時手に入る最高の物を破格で提供しているため利益はなかった。するとスタッフの間に「食べさせてあげている」というおごりのような気持ちが生まれ、それが接客態度に出ていたという。そこで耕之亮さんは、スタッフの再教育とともに店舗の改装を行うなど、約8年かけて親子丼の価格を600円から1,500円にした。「その分、『親子丼の元祖』の名に恥じない最高品質の料理をお客さまに提供するのだと決めました。お客さまは以前より確実に増えており、この選択は間違いではなかったと実感しています」

制約の中で、感性に従い、自分にしかできないことをする

元来、玉ひでは代々の主人が独自の方針で経営してきた店。屋号自体も「玉鐡」(4代めまで)、「玉秀」(5代め)、「玉ひで」(6代めから)とマイナーチェンジを含めて変えてきたほどだ。呼び名を変えるなんてことができるのは「変わらない何かがある」自信があるからこそだ。さらにもっというと、「同じことをやらないことが250余年の伝統の秘訣」ともいう。

軍鶏鍋が名物料理であることは変わらないが、5代めは高級料亭、6代めは鳥専門料理店、7代めはよりリーズナブルな料理店、とスタイルのギアチェンジがある。8代めの耕之亮氏さんは自身を「6代目と7代目の中間のような感じ」と位置付け、親子丼の値上げなど前出の通りだが、「変わらないように変えていく姿勢を持っていたから、のれんを守り続けることができた」と分析する。切り方などの技術は継承するものだが、調理法(加熱など)は日々変わるもの。伝統は伝統を継承していくために、常に最先端でなければならない。いかに取り入れ消化し伝統に組み込んでいくか。老舗は変化を恐れないとは、まさにこのことだ。

元祖が推奨するからこそ意味がある「親子丼の多様性」

江戸っ子の粋な気風を地でいく耕之亮さんに、「だから鶏をこう食べろ」というのは一切ない。ただひとつ、いま燃えていることがあるという。それは、親子丼の多様性を復活させること。親子丼のはじまりが玉ひでであることは間違いないが、そこから広がった一般的な調理法といえば、大きな鍋やフライパンでつくり、おたまですくうスタイルだった。玉ひではひとつひとつお客さまに振る舞うため、いわゆる「親子鍋」を使って調理するスタイル。それがいまでは、親子丼といえば、玉ひでのように親子鍋でつくるのがスタンダードになっている。これも、大家族ではなく核家族や単身者が増えたという社会的背景が影響していると耕之亮さんは分析する。

オリジナルが100年経ってスタンダードになった。それをよしとせず、意義を唱えるように、「鶏のうまさを楽しめるならば、割下ではない味付けの親子丼があってもいいと思うんです」と発信していく。ついこの2月に「新しい親子丼」を提唱してテレビ番組に収録されたばかりだ。こういった投げかけは、老舗である、オリジナルである玉ひでだからこそ、意義がある。

「元祖親子丼」のはじまりは1891(明治24)年ごろ。軍鶏鍋の残りの割下で卵を煮て、ご飯とともに食べていたお客様の姿をヒントに5代目女将が考案。以来、軍鶏料理店だからこそ出せる贅沢な味わいが人気を博している。ホッピービバレッジの地ビール「日本橋ビール」が飲めるのは昼間だけ。

ライフワークとして日本の鳥料理の起源について研究を深めていることもあり、過去と未来を常に観察している。「牛肉や豚肉は文明開化以降やってきたものですが、鶏は昔から日本人の食卓にありました。遡れば300年以上の歴史がある。昔からあるから当たり前過ぎて、見直される機会もなかった事実もあります。そうやって考えてみると、玉ひでの鳥すきはすき焼きの原型。『元祖すき焼き』っていってもいいですかね」といたずらっぽく笑う。

ところで日本の伝統的な鶏肉の味とは、どんな味なのか。「けっこう繊細で難しいんですよ」と挑戦的な笑みで答える耕之亮さん。よく聞く表現で記せば「うまみが重なった、こくのある深い味わい」なのだが、百聞は“一味”にしかずで、食べてみるしかない。耕之亮さんが「おわかりになりますか?」という鶏の味に、「わかりますとも」とこたえられるようになりたい。そんな風に思ってしまうから、また今日も、この行列をつくる一人になるのだ。

Photographer: Kohichi Ogasahara
取材撮影:2018年1月

玉ひで(たまひで)

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